【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#34 作曲家・古賀政男の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

技術はヘタでも心を磨こうということをモットーにしていた

『評伝 古賀政男』(アテネ書房/著・菊池清麿)より

※古賀政男の音楽活動の原点ともいえる、明治大学マンドリン倶楽部の方針を振り返っての言葉。昭和2年4月、古賀は、明大マンドリン倶楽部委員になり、倶楽部が得た名声と逆光して崩れかけている倶楽部の風紀を正した。古賀は「この時代の苦労は社会に出てから大変役に立ったように思う」とも語っている。古賀メロディーは、なぜ、日本人の心に沁みるのか? それが、この言葉に隠されているように感じる。

古賀政男(こがまさお) 
明治37年、福岡県大川市出身。戦前、戦中、戦後に活躍した、偉大な作曲家のひとり。ギタリストとしても高い評価を得ている。昭和2年、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参加し、華々しい功績を残す。昭和6年、コロムビアレコードと専属契約を結び、プロの作曲家としてデビューする。同年、藤山一郎の「酒は涙か溜息か」が大ヒットする。昭和23年、古賀メロディーを象徴する曲ともいえる、近江利郎の「湯の町エレジー」が40万枚という当時としては驚異的な売り上げを記録した。昭和40年、美空ひばりの「柔」で、第7回レコード大賞を受賞。昭和53年、73歳で死去。音楽家として初めて国民栄誉賞を贈られた。作品数は、生涯4,000曲を超える。