【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#40 作詞家・星野哲郎の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

一日を一生と思え

『ゴールデンライフ』(2016年12月15日)“輝く人インタビュー 歌手 水前寺清子さん”より

※このインタビューでは水前寺清子が歌手になったきっかけが語られている。水前寺は、15歳で『コロムビア全国歌謡コンクール』に出場し、準優勝を受賞。その時、審査員を務めていたのが作詞家の星野哲郎で、「練習においで」と声を掛けられて気楽な気持ちで師事したという。水前寺は「星野先生から素晴らしい言葉をたくさんいただきました」と語っている。今回の名言は、今でも水前寺の心に残っているという、星野の口癖である。チータという愛称も「小さな民子(水前寺の本名)の気持ちを忘れないように」と星野が名付けたという。他にも、「2番というのは、1番を目指す希望の星なんだ」、「真っすぐに歩いていると真っすぐな人に巡り合える」という言葉を水前寺に託している。

星野哲郎(ほしのてつろう) 
1925年9月30日生まれ、山口県周防大島町出身。戦後の昭和歌謡界を代表する作詞家。1952年、雑誌『平凡』の懸賞に「港のスケッチ」を応募し入選。当時、審査員だった作詞家・石本美由起の勧めで、1953年に「港のスケッチ」を改題した「チャイナの波止場」がレコード化され、作詞家としてデビューする。その後、多くの名だたる作詞家を排出した歌謡同人誌『新歌謡界』に参加し作品を発表。1958年、作曲家・船村徹に誘われ上京し、日本コロムビア専属の作詞家となる。以後、星野哲郎と船村徹は、後世に残る名作を生み出し続けるゴールデンコンビとして、歌謡界にその名を知らしめた。1964年に、クラウンレコードに移籍(創設に関わる)。1983年にフリー作家となる。生涯を通じて生み出した作品が、4,000曲にも及ぶ。代表曲は「三百六十五歩のマーチ」、「男はつらいよ」、「函館の人」、など。2010年、85歳で死去。