【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#115 演歌歌手・北島三郎の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

どんなに声が出なくなっても、場末のキャバレーでギターひとつの演奏になっても、うたっているときがいちばん気持ちがいいんですよ。それが、歌手なんですよ

『週刊平凡』(おしゃべりジャーナル/ききて 木元教子/1977年10月20日号)より

今回の名言は、ジャーナリスト・木元教子による、北島三郎へのインタビューからの抜粋である。この年、北島は41歳。歌手生活15周年を迎えている。記事の中では、主に愛息と愛娘について語られていて、「いちばん下が、ようやく3つになったばかりですからね、(中略)もしかしたら芸能界に入るようになるかもしれないな」と彼女の将来をほのめかす。そして、その一番下の娘は、現在、歌・女優として活躍する水町レイコである。北島の才能を見極める目の確かさに驚かされるばかりだ。また、「ぼくはいつまでもうたってるでしょうね。60になっても70になっても」とも語り、今回の名言につながるわけだが、北島は70どころか82歳の今も現役で歌い続けている。一途に芸を愛し、芸を極める人間には先見の明というものが宿っているのだろうか。

北島三郎(きたじまさぶろう)
1936年10月4日生まれ、北海道上磯郡知内町出身。演歌歌手、作詞家、作曲家、俳優。18歳で単身上京し、東京声専音楽学校に入学。鉄工所の行員や流しの仕事で生計を立てる。1960年、作曲家の船村徹と出会い、船村門下となる。1961年、ギター漫才コンビ・ゲルピンちん太ぽん太のぽん太としてステージに立つ。1962年、村田英雄の「王将」のヒット記念パーティーが歌手としての初舞台となる。同年6月5日、「ブンガチャ節」でデビュー。しかし、発売から一週間で発禁となってしまったことにより急遽、同年8月20日に発売した「なみだ船」が大ヒットとなる。1963年、「NHK紅白歌合戦」に初出場。1965年、「兄弟仁義」、「帰ろかな」、「函館の女」を発表し連続ヒット。演歌歌手としての人気を確立。1966年、映画『兄弟仁義』に俳優として出演。以後、映画俳優としても活躍する。1972年、北島音楽事務所を設立。1978年、「与作」を発売。1980年頃から、原譲二という変名で作詞家、作曲家、演出家としても活動を始める。2006年、「あの日時代」がオリコンの演歌・歌謡チャートにて、最高位1位を記録し、同チャート1位の史上最高齢記録を更新。2010年、『北島三郎 特別公演』の名古屋・御園座公演千秋楽にて「座長公演4000回」の大記録を樹立。同年、シングル『夫婦一生』が日本レコード協会のゴールドディスク認定を受ける、日本のゴールドディスクの史上最年長記録を更新。2011年、『第32回松尾芸能賞』において大賞を受賞。2013年、第64回「NHK紅白歌合戦」において史上初の50回出場を達成。史上最多の13回目のトリで「まつり」を披露した。それを最後に紅白から勇退を宣言。2014年、日本橋・明治座『北島三郎最終公演』で、通算公演回数4500回を達成(明治座において歌手による座長公演としては国内最多)。2016年、旭日小綬章を受賞。2019年8月28日、「前に・・・」をリリース。いまもなお、精力的に活動を続けている。