【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド〜成功への道〜 第一回:こまどり姉妹

【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド成功への道 第一回:こまどり姉妹

昭和、平成、令和の歌謡界を駆け抜けた伝説的人物のインタビュー企画がスタート。記念すべき第一回には、1959年(昭和34年)に「浅草姉妹」でレコードデビューした、双子デュオ・こまどり姉妹が登場。戦後の激動の時代を、門付芸人、流しをして生き抜き、1961年(昭和36年)からは「NHK紅白歌合戦」に7年連続出場する国民的歌手として活躍。借金や病気をはじめ数々の苦難に見舞われながらも歌手活動を続け、多くの人々に夢と希望を与えてきたお二人。その成功の秘密や歌謡界の変化、現代を生きる人達へのメッセージなどを伺いました。

取材・文◎仲村 瞳

小学校5年で中退っていうより夜逃げした

ーー本日はお二人の芸能生活の原点と、日本の芸能史にその名を刻んだ成功の秘密をお聞きしたいと思います。

栄子「私達は、11歳から親のために歌い始めたの」

敏子「戦後のことで、皆が貧しい時代なんでしょうけど。その頃は、歌手としての人生が始まるとは夢にも思わないでいたの」

栄子「家が貧しくてね。食べるのにも困って、母親が近所の家を回って、その門前で三味線を弾きながら歌って稼ごうとしたんだけど、誰もお金をくれないのよ」

敏子「聴いてくれなくてね。それで、ある家で、私たちが歌えば『お金をあげる』って言われて歌ったのがきっかけなんですよ。それから、最初は旅から旅への門付芸人になったんです。流れ流れて生まれ故郷の釧路から帯広に行った時にね、帯広の流しのお兄さんたちが憐れんでくれてね。『昼間、何千軒も歩くよりも、夜、お店で歌ったほうが楽だしお金になるよ』って言ってくれて、それから二人で流しをはじめたの。当時、ひばりさんがデビューして、子供の歌手の方が大人気だった時代ですからね。ひばりさんの歌を歌ったら、誰もがお金を恵んでくださったんです。芸能生活の原点といえばそんなところです。ひばりさんのおかげでもあるし、ひばりさんの歌で生きて来られたんです。小学校5年で中退したものですから、中退っていうより、夜逃げしたので、そのまま学校に戻らなかっただけなんですけど。それから、『東京のほうが、たくさん飲み屋さんがあって稼げるよ』って、酔っぱらったどこかのお姉さんの言葉を信じて、東京を目指すことになるんです」

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長内栄子(こまどり姉妹)

栄子「そう言われたから、行きましょうって。ひばりちゃんに会えるかもしれないし、行きましょうよってね」

敏子「両親を説得してね、東京行きになったわけですよ。東京に行くときは、『二度と北海道に戻れない』という覚悟でしたよ。帯広から函館に出て、連絡船で東京まで、鈍行の安い切符で出るには、その当時2日がかりですからね。そして、上野駅に降りたら、戦後5~6年経っているんですけど、まだ昭和26年ですから、地下道には浮浪者の方が真っ黒で何百人も寝ているわけでしょ。だからもう、怖いなーって思ったしね、学校とかそういうところは窓ガラスが割れてて学校が始まってない時代ですものね。そういう時に上京したので、もう死に物狂いでね。夜中の2時3時まで働いたんですよ。お父さんは、元炭坑夫なんですが、津軽出身ということもあって少しは三味線が弾けたので、最初は、お父さんが三味線持って一緒に回ったんです。でも、飲み屋のお客さんで呼んでくれる人は、子供の私達の歌を聴くのが楽しみなんです。私は、ひばりちゃんの歌を物まねで似たように歌うから、それ聴きたいんだけど。お客さんは、『おやじの顔は見たくない、表に出てろ』っていうんで、雨の日だろうと雪の日だろうと寒い日でもお父さんは表で待っていたんです。そうやって親子でね、一生懸命、食べるのがやっとの生活をずーっと続けていたんですよ。当時、3曲歌って50円か100円なんですが、ずるいお客さんだと、子供だと10曲も歌わせて一銭も払わないでおん出される時もたくさんありました。そういう積み重ねで、歌の回数が多かったせいで、歌のコツを覚えましたよ。子供ながらも、流行り歌を歌うわけですから、流行してきた歌謡曲をパチンコ屋さんのスピーカーで覚えて歌うわけです。真剣に流行り歌を歌うからお客さんも喜ぶのね。お父さんも『100円ずつあげるから、今日は新しい歌謡曲を覚えてきなさい』と言うんです。子供だからね、その100円でキャンデー買って食べたりしてね。アイスクリームが食べたいけど高いから」

栄子「安いの買って食べていたわね」

敏子「駄菓子屋さんに行って食べるのが楽しみでね。子供だからそうやって生きてきたわけですよ。『普段、よく練習するんですか?』ってよく聞かれるんですが、私はお姉さんと練習したことがないんですよ。その時に一緒に歌ってきたフィーリングが土台になっているんです。もう、練習しなくてもね、ぶっつけ本番で、一晩で何百曲も歌うんだもの。1年で何万回も歌うし、それを7~8年も続けていたらね、レッスンどころじゃないよね。もうすごい数になるから。素人でもね、数こなせばある程度は、聴けるようになるもんなんだな、とは思いましたね」

ーー門付芸人は、まずお母様が始められたということでしたが、お母様は、もともと芸事をされていた方なんですか?

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長内敏子(こまどり姉妹)

敏子「お母さんは、秋田出身で、声はすごくいいんです。民謡が上手でね。若い時は民謡歌手になりたかったらしいんです。レコード会社からも話がきたんですけど、結婚して子供が2~3人いて、歌手になれなかったんですよね。だから、声は良かったんです」

ーー歌を教わることはあったんですか?

敏子「いえ、親から習ったことはないんです。うちのお母さんが近所の人を集めて、他の人に聞かせているのを子供の頃は聞いていただけなんです。家の前が銭函っていう浜辺だから、海に向かって歌っていました。人に迷惑もかからないし。お姉さんなんか7つか8つの頃、追分なんかすごく上手だったのよ。追分っていうのは、子供が歌うには大変な歌でしょ」

栄子「よく歌ったわね。私達」

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