ーー当時、門付芸人の方はたくさんいたのでしょうか?
敏子「そうですね。お祭りのある場所を聞いて回って、そのお祭りのある町に行くもんですから、他の門付芸人さんにもよく会いましたね。新潟の芸人さんが多いんです。新潟は、獅子舞とか越後獅子とか、お子さんの芸人さんが多いんですよ。新潟の子供さんは、ほとんど、もう生まれた時から芸人ですからね。すごく上手いし、商売の仕方も心得ているんですよ。私達は素人で、一軒一軒歌って歩くんですけど、新潟の芸人さんは、回るのが早いんですよ。私達の先手先手行っちゃうから。そこでお金払った人は、後から来た人にお金払わないですからね。だから『これじゃいけない』と勉強させてもらって、じゃあこっちはもっと早く起きて、もっと早く回りましょうって、そういうふうに、仕事から仕事を教わりましたね」
ーー何時頃から回られたのですか?
敏子「朝の8時頃からね。だって、街全部回るっていったら300軒もあるでしょ。ちょっと大きい街だと何千軒も何万軒も回るわけだから。ただ、人の家の前で歌っても、戸を開けてくれなかったらもう、お金をもらえないんです。同情して『ご苦労さん』って1円でも5円でも10円でもくれるうちはありがたいけど、なかなかそういう家はないんですよ。もらえるのは数百件に一軒とかですね。流しもそうですけど、飲みに来ている人っていうのは、お酒が好きか、そこのお姉さんに惚れているか、美味しいもの食べたくて来ているか、3つに1つだから、流し芸人の歌聞きたくて来ているわけじゃないのよ。歌を聴くなんて、余計なことだからね。門付とか流しの仕事っていうのは。酔っているお客さんに嫌われたら呼んでもらえないんですよ。だからもう、二人で鏡見て、笑顔の練習するんですよ」
栄子「笑顔がさわやかじゃないとダメなのよ」
敏子「11、12歳からね。鏡見てどのぐらいで笑ったらいいか、人相学の本買ってきて、それはそれは勉強しましたよ」
栄子「普通の人はやらないわよね、人相学。私たちは小さい頃からやっているんですよ」
敏子「例えば、戸をガラガラっと開けてね、『こんばんは。お客さん、1曲いかがでしょうか』って聞くのが大変なんですよ。『いらないよ!』とか『うるさい!』って戸をビシャっと締められることがほとんどなのよね。よっぽど優しい人に出会わないと仕事はできませんもんね」
ーー同じくらいの年代の、子供の流しはいたのでしょうか?
敏子「いましたよ。当時はね。東京は流しっていうよりも、靴磨きの子と花売りの子ね、あと食べ物を売るか、そういう子供が稼ぐ時代だったから。だから、『シューシャインボーイ』っていう靴磨きの映画ができたり、物語ができたり、“♪花を召しませランララン”っていう『ひばりの花売娘』(美空ひばり)っていう歌もあったわね。女の子は花売りの子が多かったわね」
栄子「今は、全然変わっちゃって、どこにもいないわよね」
敏子「私達は流しだから、お客さんに呼ばれるコツとか、笑顔の作り方とか、お客さんが何を聞きたがっているかとか、そういう心理学的なことが、ものすごく勉強になったので、歌手になったあと、とても役に立ちました。お客さんがシーンとして受けなかったら、お姉さんに目配せで、次この曲に変えようって、すぐ変えたりしてね。私達は、流しとか門付とか1対1のお客さん相手にやってきたから、そのお客さんの心理がわかるから、大勢入っていても、1人のお客さんが喜ぶようなことをするとみんなが喜ぶっていうことをちゃんと知ってるいから、助かりましたね」
ーー流しの世界というのはどんなものだったのですか?
敏子「いいお客さんは、そんなたくさん歌わせないでね、もう2~3曲歌わせると、『僕の取ったトンカツとか、お寿司、食べなさいよ』って言ってね、食べさせてくれるんですよ。お金もね、3曲100円だけど、300円位くれて。いいお客さんはそういう人がいるから、本当に、流しをしたおかげで、食べたことのないお寿司とか、トンカツとかね、色んなお客さんのとったお刺身とかごちそうになって、すごく栄養的には普通の家庭の子供よりも、どん底に落ちたおかげで、恵まれたっていうのはありますね。流しの世界は『働き込み』って言ってね、3ヶ月とか半年、その場所を提供してもらうには、売上は全部、親分さんにあげて、しばらくはご飯代とかそういうのだけもらって暮らすんですよ。その時逃げ出さないで一生懸命親分さんに尽くしたら、『ここでやっていいよ』って許可が出て、自分で全部もらえるんです。そこまでみんな我慢できないんですよ。みんなやめてどっかいっちゃうからね。ずっと尽くして頑張ったから、流しの親分さんからは可愛がられましたね。その世界のしきたりが、色々あるんですよ」
栄子「私たちはずっとやっていたのよね」
敏子「そうやって休まないで働いたから、北海道の流しのお兄さんがラーメンとか食べさせてくれたのね。親分さんの息子でね。私達の稼ぎがいいから、ぽっぽ(着服)されたら困るから、働きを親分さんが息子に見て管理しておけっていうんで、私達の働きを息子さんが管理するわけなんです。冬の夜中の3時頃の帯広なんか寒いでしょ。その時ラーメン1、2杯ご馳走してくれるのよ。普段、食べられないのを知ってるから。それがすごい助かってね」
栄子「1杯、2杯、3杯くらい食べるものね」
敏子「食べられるんですよ。育ちざかりだもの。屋台のおじさんは喜ぶし、流しのお兄さんはうちのおやじが全部取り上げちゃうのを知っているからかわいそうだと思って、ご馳走してくれるんです。そうやって帯広に半年位いたかな。それから帯広から東京に出発したんです」
栄子「でも、当時、まだ11歳だからね」
敏子「今の5年生の子に『そういうことできる?』って言っても嫌だって言うわよね。酔ったお客さんでもいい人もいれば、子供をいじめる人もいるからね。卑猥なことを言ったりね。歌っている時に、卑猥な写真をバッと見せたて、どんな反応するか試そうっていう変態みたいなお客さんが8割方いるのよ。うちで何か面白くないことがあって飲みに来ているとか、会社で上司に怒られたとか、そうすると弱い私達にぶつけるわけだから、私達はもう、知らん顔して知らないふりしてね、わかんないふりして、カマトトぶらないと生きられないのよ。私達、痩せていて栄養がよくとれなかったせいもあるし、未熟で生まれて背も小さかったのよね。11、2歳でも7つか8つくらいにしか見えなかったみたい。わざと身体を小さく見せるようにリボンも大きくして、肩揚げも普段より大きく取ったりしてね。帯じゃなくて三尺ってあるでしょ。9つか10位になったら普通、三尺ってしないんですよね。それをして、7つか8つにしか見えないから、得をしましたよ」
ーー衣装でも演出をされていたんですね。
敏子「そうそう。なるべく品のある姿をしようとしていましたね。お母さんは、6つの時から奉公に出されて、色んな良い家の奉公とかしてきた人だから、工夫をしてお嬢さんが着るような格好をさせてくれました。そういう演出をしてね、小さい時から一生懸命働いたのね」