【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド〜成功への道〜 第一回:こまどり姉妹

【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド成功への道 第一回:こまどり姉妹

一晩で3千円から5千円働くんだもの

ーー衣装は手作りだったんですか?

敏子「お母さんが裁縫できたから。着物なんて買えないから。当時、花嫁衣装に持っていく布団の上に羽折る掛け布団の皮があるんですよ。それが、布団屋さんに売っていて、うちのお母さんがいい柄を買ってきて、私達の着物を縫ってくれて着せるんですよ。だからみんな布団の皮なんですよ。だけど、その変わり重たいんです。今みたく、絹とかあんないいものじゃないんですよ」

栄子「ずしっと重たい生地なんですけど、よく着ていたねえ」

敏子「そういう布団の皮を着て、生きてきたんですよ」

栄子「普通の人はそんなの着ないからねえ」

敏子「そんなアイデアなんて浮かばないものね」

栄子「だから私達を見るとね、『綺麗、綺麗!』ってみんな言ってくれて。お金をくれましたよ」

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長内敏子(こまどり姉妹)

敏子「だから、東京に来てから流しのお兄さん達が妬んじゃってね。私達に仕事を奪われるっていうんで。北海道に返そうと思って、うちのお父さんを袋叩きにしたりね。色んなことがありましたよ。銀座にも渋谷にも新宿にも行ったんですけど、『今日限りは許すけど明日から来るな』って、場所荒らされたら困るからって、ヤクザにも脅されてね。絶対させてくれなかったの」

栄子「でも、浅草は色んなところがあってね。そういう人達とは違う場所でやっていたのよ」

敏子「今のラーメン屋みたいなところでやったりしていたのよ。流しのお兄さんはカフェーって言って、今のバーみたいなところへ入ってやるんですけど、3人ぐらいでギターとかバイオリンを弾いてね。私達は、浅草の、今で言う焼酎飲むような、ホッピー通りみたいなところを専門にやっていたのよ。それでも私達を『おいでおいで』って呼びにくるお店もできたんですよ。で、ひばりちゃんの歌を歌ったら強いじゃないですか。あの時のひばりちゃん、全盛だから。そうすると、『三味線持ったなら許す』ってなっちゃったわけです。私達、1年ぐらいは、こそこそと何も持たないでやっていたんです。普通、三味線を人前で弾くにはお師匠について練習しても3年はかかるんですよ。だから、その時の親分さんは、『三味線を持て』、って言ったら尻尾巻いて帰るかと思ったのね。私達は、どうしたってもう北海道に帰らないって覚悟で来ていますから必死ですよ。東京にいても、当時、ねぐらにしていた山谷の木賃宿でも一泊500円取られるんだから、雨露を凌ぐにも大変です。70年近い前の話ですからね。だからお父さんとお母さんが三味線屋さんに行って、月賦で買うからと三味線を2丁借りて来てきたんです。そして、三味線教える師匠を探したら、昔、芸者さんで三味線も歌も上手な人がいて、その人に教わったんですよ。そのお師匠さんに、1曲でいいから教えてほしいと頼んで、端唄の『夕暮れ』を一曲だけ教えてもらったんです。真剣に学んで、2日か3日で覚えちゃったんですけどね。そして、三味線を持って、1曲だけしか弾けないに100曲弾けるような顔をして浅草の街に出かけたんですよ。相手方はもう『出てけ!』って言えないわけね。三味線持っているから。そいで、お店でお客さんに呼ばれて、『何を弾ける?』っていうから『夕暮れ』を弾いて、『あとは、何、弾ける?』っていうから、『お客さんの歌に合わせるから、お客さん歌ってください』、っていうと喜ぶわけよ。歌好きな人は歌いたいんですよ。そいで、お客さんに合わせて三味線弾くわけ。お客さんが低く歌えば、低く下げて、高い声出せば高くやると、『俺、今まで流しの三味線の芸人呼んで歌って、今まで歌いづらかったけど、自分で歌下手だなと思っていたんだけど、君たちの三味線で歌ったらすごく気持ちよく歌える!』」っていうわけよ。それで『また呼ぶからな』ってこうなるわけね。だからお客さんに即興で合わせるコツね。それを私達、会得したんです」

栄子「そしたらもう何十人もね」

敏子「私達の伴奏で歌う人達が増えていったんですよ」

栄子「だからお金がいっぱい入りましたね」

敏子「もう毎日。当時サラリーマンの人が月8千円とか、大学出で1万4千円とか言ってる時代に、一晩で3千円から5千円働くんだもの。その変わり夕方の5時頃から夜明けの3時頃まで働くんだから。歩きっぱなしなんだから」

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長内栄子(こまどり姉妹)

栄子「歩いたのが身体には良かったのかもね」

敏子「そうね。今も丈夫なのは、その時に歩いて鍛えられたんだと思う。浅草中を3回くらい回るわけ。昔は、国際劇場があった辺りとかビューホテルから松屋のほうからぐるーっと夜11時頃までで3回くらい回って、それから吉原のほうへ行って。吉原のまわりにも当時はたくさんお店があって、そこをまた2、3回まわって、帰るんです。山谷まで歩いてね。足が棒みたく腫れるまで歩くんですよ」

ーー山谷にはご両親も一緒に来られたんですか?

敏子「はい、一緒です。私達が夜行列車で夜11時頃に出発するのよ。そうすると流しのお兄さん達が仕事の途中なのに10人ぐらい見送りに来てくれて、歌って送ってくれたんです。餞別もくれて。そうやって東京に出てきた思い出があります。上野に着いたら、浮浪者も多いし、山谷なんか、泥棒と詐欺と飲んだくれのニコヨン(日雇い労働者)の生きる場所だったからね。朝トラックで、50人位乗っけて連れていくんだけれど、早く集まらないと乗り遅れるんですよ。そうすると仕事にあぶれるからね。だからみんな山谷に5時かそこらに集まるのよ。雑炊が30円とかいう時代にね。必死になって生きたというのが原点です」

ーー流しの人達や当時の人達は情が深いですね。

敏子「そうですね。みんな苦労しながら、日本の復興にかけて戦っていた時代だから」

栄子「私達を見て、喜んでくれているから、同情してくれていたから。今とは違うわねえ」

敏子「今は、そういう時代じゃないものね。なんかね、人間の気持ちっていうか、そういう情けっていうの? 人が困っていたらかわいそうだと思ったり、そういう心が薄くなった人が多くなった気がするの。あまり生活が良くなり過ぎて、苦労を知らないと、中流意識っていうか。日本の景気が良くなって、海外旅行に行くようになって、ステージとかショー見るよりも、テレビのほうに移っちゃって、映画が廃れちゃってね。そういう時代になってきたものですから、私達が生きたデビュー時代の人とは全く違うな、という感じはしますね。あの頃は、親のために、学校行きたいけど、中学卒業して上野に出てきたという人も多くて、井沢八郎さんの『あゝ上野駅』とか、ああいう曲が流行った時代でしょ。でも今、『親のために』って、覚悟して自分が身を削って頑張るっていうのが少なくなってきたじゃないですか」

栄子「今は昔と全然違うのよね」

敏子「まあ、今となっては、私達はいい時代に育ったと思います。親が生んでくれたおかげで、どん底であってもそれなりの何かたくましく生きられる時代だったような気がするのよ。努力したらしただけの報酬があるっていう時代ね。今はね、それとは違うみたいで、努力してもつぶされてしまうような時代になっちゃったりね。あの当時は一生懸命努力すれば、上に上がっていけるっていう希望があったんですよ。底辺の人でもね」

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