【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド〜成功への道〜 第二回:橋 幸夫(前編)

【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド〜成功への道〜 第二回:橋 幸夫(前編)

昭和、平成、令和の歌謡界を駆け抜ける伝説的人物のインタビューシリーズ。今回は、1960年(昭和35年)に「潮来笠」でレコードデビューした、橋 幸夫が登場。16歳でプロ歌手となり、いきなりの大ヒットで『第2回日本レコード大賞』で新人賞を獲得。同年の第11回「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たすという偉業を成し遂げた。その後も快進撃は続き、1976年(昭和51年)の第27回まで、紅白連続16回出場という記録を打ち立てる。その後も、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」と「霧氷」で、2度も「日本レコード大賞」を獲得するなど、古き良き歌謡界の最前線を突き進む。そして、現在もなお、現役のプロ歌手としてステージに立ち続けている。まさに、歌謡殿堂に名を刻むに相応しい橋 幸夫に、成功の道を語ってもらった。現在の歌謡界への熱いメッセージも必読です!

撮影:野田哲郎
取材・文:仲村 瞳

子供の頃、歌は全然好きじゃなかった

ーー本日は、橋さんの歌手としての原点とは何かということを中心にお聞きしたいと思います。そして時代を越えてご活躍し続けられたその理由、その秘密も探らせていただきます。まず、記憶の中にある、初めての音楽的な体験は何でしょうか?

橋 幸夫(以下、橋)「うちは9人兄弟の大家族なんで、父母入れて11人で生活をしていました。僕が小学生の頃、うちは池袋の商店(洋品店)だったんですけど。その頃よく、学校から帰ってくると、家族の誰かが歌を聴いているんです。昔の蓄音機でレコードでね。そういう環境で育っているので、耳に入ってくるのが大人の歌で。それこそ『青い山脈』とか、昔の歌謡曲の世界ですね。そういう歌を家族中で、年中、歌うのが好きだったんでしょう。僕は一番下なんで、ちょこんと座って聞いていたりした。でも、だんだんそういうメロディが耳に入っちゃうんです。それがきっと最初でしょう」

ーーその頃に、「いい曲だな」とか「もう1回聴きたい」と感じる曲はありましたか?

橋「もう少し大きくなるとあるんですけど……。単に、食事する前に歌っていたり、聴いていたりするんでね。何でうちはこんなに年中、歌聴いているのかなって記憶しかなくて。なんだかわからないうちに、聴かせられている感じでした」

ーージャンルはバラバラだったのでしょうか?

橋「バラバラだったと思います。当時、日本は戦後で、皆で日本経済を良くしよう、早く幸せになろうっていう時代でした。もともとは、父親が荒川区で染物店をやっていたんですよ。それが戦災で焼けちゃいましてね、それで、豊島区の池袋に移ってきたんです。その頃からの記憶しか僕はないんだけど、家族がいつも一緒にいるというのは当たり前でした。当時、どこの家庭もそうでした。兄弟も多かった。“産めよ増やせよ”という時代だった。そういう時代です。だから何だろうなあ、特別に歌をどうのっていう記憶はもうちょっと後ですね」

橋 幸夫

ーー歌が好きだという感情が芽生えたのもですか?

橋「全然好きじゃなかった(笑)」

ーー遠足のバスの中で「黒百合の歌」を歌って驚かれたそうですが。

橋「そうそう、織井茂子さんね。あれなんかは大人たちが聴いていた歌ですからね。僕達、生徒達が聴く歌じゃなかったんですが、耳にちゃんと入っているもんだから、遠足でマイクが順番にまわってきて歌ったという。それが歌い初めかもしれないね。」

ーー小学校の何年生でしょう?

橋「修学旅行ではなくて遠足でしたよね。だから4年か5年位かな」

ーー他の生徒達はどんな歌を歌っていましたか?

橋「歌謡曲とか民謡かな、子供たちが歌っていたのは。あと童謡ですね」

ーー蓄音機から流行の音楽が流れ、歌声が溢れていた橋さんのご家族が気になります

橋「橋家のルーツっていうか、やっぱり商いをするっていうのが仕事の家族だったんでね。おふくろも一緒に父を手伝って、姉達、兄貴達も全員。まだ若かったからみんなで家計を支えていたってそういう時代です」

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