【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド〜成功への道〜 第二回:橋 幸夫(後編)

【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド〜成功への道〜 第二回:橋 幸夫(後編)

昭和、平成、令和の歌謡界を駆け抜ける伝説的人物のインタビューシリーズ。今回は、1960年(昭和35年)に「潮来笠」でレコードデビューした、橋 幸夫が登場。16歳でプロ歌手となり、いきなりの大ヒットで『第2回日本レコード大賞』で新人賞を獲得。同年の第11回「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たすという偉業を成し遂げた。その後も快進撃は続き、1976年(昭和51年)の第27回まで、紅白連続16回出場という記録を打ち立てる。その後も、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」と「霧氷」で、2度も「日本レコード大賞」を獲得するなど、古き良き歌謡界の最前線を突き進む。そして、現在もなお、現役のプロ歌手としてステージに立ち続けている。まさに、歌謡殿堂に名を刻むに相応しい橋 幸夫に、成功の道を語ってもらった。現在の歌謡界への熱いメッセージも必読です!

撮影:野田哲郎
取材・文:仲村 瞳

インタビュー前編はこちら

あっという間に60年経っちゃった

ーー嫌になってしまうことはありましたか?

橋「そこまではないというか、言っている余裕もなかったから。考えるようになったのは5~6年経ってからですね。『このままでいいのかな』と思ったり、『俺の青春時代ってなんだったんだ』って、なるよね。時々ね(笑)。だから、夢中で10年間は過ごしちゃったんですね。その間が相当過密なスケジュールだし、幅も広かったし、ありとあらゆるものをやった。デビューして4年経ったら21歳でしょ。初座長が大阪新歌舞伎座でスタートだから。今度は毎年8月に1カ月間、12年連続ですよ。東京明治座も8年。その前に今の日比谷にある日本劇場。それから大阪行くと大劇(大阪劇場)っていう劇場があって、これ全部、一週間公演でやるんです。ここにみんな、女性のSKD、OSKっていう歌劇団が入っているわけですよ。その人達と一緒にショーをやるんです。これも全部10年やりましたよ。それから間に、芝居の劇場に座長として出るという。もう、ほんっとに忙しい。めちゃくちゃですよね」

ーーそれを遂げるためのモチベーションは何だったのでしょうか?

橋「なんだろうなあ。とにかく夢中でやるということでしたし、やらざるを得なかったし、家族が応援していたというのも大きな力ですよね。そして東京の厚生年金ホールっていう、2,600人位入るけっこうでっかいところで橋幸夫後援会発会式ですよ。昭和36年、デビューした翌年です。後援会長は、たまたま僕のファンだと言っていてくれた、銀座4丁目にある元『三愛』の奥様がやっていたんですよ。旦那さんは市村清さんっていう、理研工学の社長ですよ。その奥さんが、『後援会長になっていいってうちのお父さんが言ってる』からって、ビクターと話をしてくれて。うちの兄貴やなんかもご挨拶に行って。発会式には、市村清さんが会長で、橋幸夫後援会ができたんですよ。いきなり、会員さんが1万2千人くらいいたかな。トータル、一番多い時で7万何千人ですよ。後援会の話だけで面白いんですよ。

それで10何年やってきたら、市村社長が忙しくなっちゃったんで、『後援会ずっとやっていられないな』ってなっちゃったらしくて、しばらく会長が空席のままでいたんです。だんだん私も忙しくなって、業界も色んな人と出会うようになって。今度、佐川急便の会長と会うようになった。2代目会長が佐川清さんですよ。この佐川会長もずいぶんお世話になって、レコード会社も移籍したくらいだから。それで10何年付き合っていただいて、会長が亡くなったので、後援会長がまた空席。その時に現われたのが、今の3代目の会長の幡谷定俊さんで、茨城トヨペットの社長なんですよ。この人が私の大ファンで。4つくらい僕より下なんですけど。僕が高校生、今の会長が中学生になったばっかりかな。橋幸夫に夢中になっちゃってね。で、自分が『大学に行くのどうしようか』ってぐらい本当に夢中で、レコードから全部買ってくれた人で。今でも応援してくれていますよ。とっても恵まれているんですね。こっちは夢中でやらざるを得なくてやってきた、という人生ですね。そしたらあっという間に60年経っちゃったんですよ」

ーー60周年というのはすごいことですね。特にデビューからの1年に驚きました。

橋「そうですね。時代が良かったという人もいるし、本当にその通りなんですよ。もう日本中が、歌がなきゃ趣味にならない。テレビがありましたけど、まだテレビが走りの時代だし。僕らのデビューするちょっと前はラジオしかなかったですから。NHKはありましたけど、民放が開局したのは昭和28年。日本テレビが最初で、民放はその頃からどんどんできてきたんですよ。だから、テレビの時代になっていく頃だったんです。その話もいっぱいありますけどね、とても話し切れません(笑)」

橋 幸夫

ーー歌謡界を生きるにあたって。

橋「はい。楽しかったですね。それを語ったって、今知る人はほとんどいなくなっちゃった。60年っていうのは相当長い時間ですけど、特に私のデビューから10年間っていうのが、まだ日本もどんどん変わらなきゃならない時代だから、色んなドラマになることばっかりありました」

ーー1967年の映画『シンガポールの夜は更けて』では、𠮷田先生とシンガポールに行かれたそうですが。

橋「行きましたね! その時、先生はなんで来たのかわからないんだけど。グラビアの取材だったと思うのね。平凡か明星の。それで吉田先生も『楽しそうだから行くぞ』って来たんだよね、きっと(笑)。変な格好して映っていますよね。𠮷田先生が」

ーーどのくらい滞在されたんですか?

橋「1週間以内でしたけどね、先生は。僕は撮影だから10日位いたかな」

ーー現地のナイトクラブは行かれたのですか?

橋「クラブは行かなかったけど。シンガポールは、2018年にも行ったんですけど、当時と全然変わっちゃいましたね。最初に撮影していた浜辺なんてビルだらけだし、すごいなあと思うくらい、アジアも変わっていますよ」

ーー海外もたくさん行かれているのですよね。

橋「ロケーション、映画の場所と公演の場所と、中国も北京でやったし、西海岸はロサンゼルスとサンフランシスコ両方やってるし、遠くは地球の裏側の南米のブラジルまでやってますから。あとは台湾ね」

ーーご活動の幅が広いですね。

橋「ずいぶんやりました」

ーー吉永小百合さんと香港へ行かれたというのは本当ですか?

橋「あれはね、『月刊平凡』の人気投票っていうのをやっていたんですよ。毎年、男性と女性のナンバーワンが序列されていて、僕が男性の1位、彼女が女性の1位だったの。で、1位の副賞で『なんかプレゼントしましょう』っていうのが香港旅行だったんですよ。で『行ってもいいね』ってお互いの事務所がなって、じゃあ行きましょうとなったんです。一緒に飛行機に乗って、ホテル着いたら部屋は別だからね、もちろん。それで自由時間にちょっといたずらしてやろうかなって思って、小百合ちゃんの部屋の番号聞いていたから、『もしもし?』っていうのを日本語じゃなくて『シャオジェショオジェ』って中国語っぽい作った私の言葉で電話したんです(笑)。そしたら『は? どなたですか?』って言うんです。小百合ちゃんが。でまた作った言葉で全くでたらめ言ったら、『あの、どなたですか?』って彼女真面目だから、そう言うんですよ。だから『橋ですけど』って言ったら、『なあんだー!』って、そういういたずらしていた(笑)」

ーー楽しそうですね。どのくらい滞在されたのですか?

橋「3泊4日ぐらいだったけどね、楽しかったですね」

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