【インタビュー】歌謡殿堂レジェンド〜成功への道〜 第二回:橋 幸夫(後編)

橋 幸夫

デュエットベスト盤。これが結構売れてます!

ーー2019年7月に発表された『60周年記念デュエットベスト~星よりひそかに 雨よりやさしく~』についてもお聞きしたいです。

橋「これはたまたま、今のディレクターの山川君っていうのが私の担当になってから、色んな楽曲をやっていたら、『橋さん歌ってないものがありますよ』って聞いたら『デュエットソングをしばらくやってないじゃないですか』って。確かにそうなんですよ。『今夜は離さない』っていう安倍里葎子さんと歌ったのがもう31年前なの。それでびっくりして、『そりゃそうだな! じゃあやるか』って言って、去年、林よしこさんを選んでやったのが一番新しいバージョンですね。で、その子を入れて、21世紀にちなんで21曲にしぼってアルバムにしました。『星よりひそかに 雨よりやさしく』というタイトルにしてね、デュエットベスト盤。これが結構売れているんですよ」

ーー素晴らしいですね。待ち望んでいたファンも多いと思います。

橋「そうですね。21曲入りというのはあまりないし」

ーー橋さんが選曲をされたのでしょうか?

橋「これはまず全部ディレクターが『これどうですか?』と出してきて。小百合ちゃんが一番多いんだけどね。実際に多いんですよ。彼女と歌ったのが。「いつでも夢を」が第一号なんです。デビューした2年後、昭和37年にレコーディングしたので」

ーーその曲でレコード大賞を受賞されたのですね。

橋「はい。それと最新のものという選曲になりました」

ーー色々な女性とデュエットをなさっていますね。

橋「そうですねえ、もう今辞めちゃっている子もいますしね。ステファニーさん、水野洋子さんも辞めちゃっていないな。山中沙南子さんも辞めちゃった」

ーー続けていくということは大変なのですね。

橋「そうねえ、60年だからねえ。それは、辞めますよね」

橋 幸夫

ーー『今夜は離さない~令和バージョン~』も大人の魅力が感じられて素敵でした。

橋『これはね、今ライブやっている夢グループの一員の、彼女(保科有里)が上手いんでね、『一緒にやるか?』って言ったら『お願いします』って言うんで、それで。これが最新のバージョンですよね。で、もちろん安倍里葎子版も入っていますけど。『これはお買い得ですよ』って僕がライブでしゃべると売れるんですよ』

ーーそれは売れると思います。アルバム制作、または楽曲で特に印象深いことは何でしょうか?

橋「そうねえ、金沢明子さんも今ライブで一緒に出ているから後半歌わせるんですけど、『昭和音頭』っていう歌があるしね。『昭和音頭』なんか歌っていると『本当に昭和のこと思い出すね』って言うんですけどもね。あとはそれぞれエピソードがあるけど。忙しかったからね、僕が。ほとんど、何をレコーディングしたかって忘れちゃうんですよ。だってひどいですよ、ビクターって。連続10何年、毎年10数タイトル発売しているんだもん(笑)。毎月1.5枚ずつぐらい発売しているんだもんね」

ーー今では考えられないハイペースですね。

橋「でもね、有難いことに、それが全部10万枚以上売れているんです。それが時には30万、40万、『いつでも夢を』なんて160万枚くらい売れていますからね。だから、そういうレコード時代だったっていう。いい時だったですよね、これは」

ーーレコーディングは同時録音だったんですよね?

橋「同録のつもりが。小百合ちゃんとやった時が、そもそもすれ違いですから」

ーースケジュールが合わなくて?

橋「別録りです。他の方々とも別録りはありましたね。三沢あけみさんもそうですね。一緒に歌わないでダビングですよね。そういう技術はもうありました」

ーー当時、作詞家、作曲家の先生方はレコーディングに立ち会われたのでしょうか?

橋「全部立ち会います」

ーー歌い方の指導などはあったのでしょうか?

橋「それはレッスンの時ですけど。𠮷田先生がほとんどだったから、𠮷田先生のお宅へ行っていつもレッスンだしね。𠮷田先生って方はあんまり細かく言わないんですよ。で、ちゃんとレッスンして1回歌って、『はい、いいね』って。で、ちょっと間違えると、パッと鍵盤から手を放すんですよ。これが怖いんですよ、僕にとっては(笑)『何でしょうか?』っていうと『ここな、同じところを2回間違えないようにな』って言うだけなんですけど。それがジーンとくるよね(笑)。そういうレッスンしたりね。あとは色んな先生がいますけど、とにかくやっぱり、この昭和っていう時代のちょうど僕達の時代が、テレビに移り変わってくる時代だからドラマティックですよね。それが歌にも表れているしね。色んな歌の詞にもなっているし」

ーー時代が歌に表われるのですね。

橋「表れますね。今、ちょっと寂しいですね。情景がないから。飲み屋さんだとか暖簾だとか、例えば街によって違うでしょ。今、時々ライブでも話すんだけど、どこ行っても新幹線の駅は同じでしょ。ファミリーレストランはみんなあるしね。どんなとこ行ったって景色はおんなじでしょ。そうすると本当、京都とか奈良ぐらいですよね。違うなってところが。だからこれが、いいことか悪いことかって話をするんですけどね」

ーー寂しいですね。

橋「本当に寂しいですね。日本は環境省ができたのも浅いでしょ。僕、最近は言わないけど、よくそういう話を言ったことがあるの。風情とか建物の歴史とかそういう中に皆、人がいるわけで。一番大事にしなきゃいけないのは景観ね。これをおろそかに皆がし始めちゃったから。全部同じものを流せばいいって。この合理化と景観壊しが甚だしくなった日本だから。これはヨーロッパを見習わなければダメですね。僕が最初にヨーロッパに行ってあちこち見て回った時は、とにかく歴史的なものは絶対傷つけないし、そのまま景観を残しているし、だから観光で観に行くんじゃない。今の日本はそういう点ではひどいですよね。だから外国人で来てがっかりする人もいるでしょうね。だからそういうのを探しにいくの大変だと思う。外国はすごいですよ。フランスなんかも。ちょっと行ったら、色んな路地路地がみんな歴史になっているし、そのまま残している。日本は反省しなきゃだめですね。日本では京都くらいだよね。残っているのは」

橋 幸夫

ーー京都といえば、1969年に発売された曲「京都・神戸・銀座」が大好きでして、発売当時に、“ナイトクラブキャンペーン”というキャンペーンをやられたそうですね。

橋「そうそう、初めてやったの。あれは京都、神戸、銀座の3か所にあるナイトクラブをキャンペーンで回ろうと。で、偶然、作詞家(橋本淳)がそういう歌を書いたのでね。そのラブソングを広めにいくのはキャンペーンがいいねって、ナイトクラブを探してやったんですよ。で、当時のナイトクラブっていうのはだんだん廃れていく、変わっていく感じだったんでね。『ぜひこの歌を』と、ビクターも相当力を入れてやったんですけどね。あの曲は思い出しますよね、京都と神戸と銀座っていうのは今でもちゃんとした街だし、今の景観が維持されているところですよね。

クラブっていうのは銀座では一流店だった。小さいお店から大きいお店まで、そこには色んなドラマがあって。クラブのホステスになるのは全部大学卒業だったの。学もあって、夕刊をちゃんと読んで、お客様の質も良いし、そこに来るお客様のために、対応する話術の会話が、『なあ君あの、今日テレビでやっていた社会的な……』、『あ、出ていました。知っています』ってこういうホステスなんだよ。それは勉強しながら、ちゃんとホステス業っていうのが成り立っていた時代。だからフランクさんが歌っていた当時の『東京ナイト・クラブ』っていうのがカッコ良かったんですよ。今、全くそれがね。若い子だけになっちゃって大人がだんだん行かなくなる。大人のお店がない。そんな感じですな」

ーーナイトクラブは憧れます。行ってみたかったです。

橋「そうでしょ。今、どんどん、壊してるからね」

ーー生バンドが入るお店というのが少ないですからね。

橋「ちょっと残念ですね、なんでもハイテクハイテクになっちゃっているし、ヤバいなあ。でも今の若い人って知らないからなあ。で、知っているおじさん達を若者は嫌うじゃない(笑)。そうすると教えようがないじゃない(笑)。だからこの話を清水アキラ君とかに話したよね。そしたら、『いやーいい時代ですね』、アキラ君はびっくりするやら尊敬するやら『いいですか兄貴って言って』なんてね。『そのまんま映画にしてくださいよ』、なんて彼も言ったしね。(ビート)たけし君も『映画にしたらいいのに』って言うから、『一緒にやろうよ』って話をしたんです。でも彼もすぐ忘れちゃうタイプだから(笑)。でもこれは本当にみんなで真面目に考えて。まあ、こういう話すると酒がないともう……(笑)。本当に、でも残念!」

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