【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#140 ミュージシャン・加藤和彦の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

平々凡々としてたら作品って出てこない気がする

『Musicman』(インタビュー/第71回 加藤和彦氏 プロデューサー/ミュージシャン/2009.7.17)より

このインタビューでは、加藤和彦がプラモデルに夢中になっていた少年時代から音楽との出会い、そして、ミュージシャンとしての半生が語られている。加藤が死去する約3ヶ月前に発表された貴重な記事である。今回の名言は、加藤の創作活動における信条。「ヘミングウェイは好きなんだけどもよく考えるとヘミングウェイの一生の方が作品より面白いじゃないですか。ピカソとかもね」とも語っている。つまり、彩り豊かで楽しく面白い人生が良い作品を生むということなのだ。音楽活動だけでなく、ファッションリーダーとしても知られ、お洒落で優雅なライフスタイルを実践していた加藤らしさが感じられる言葉である。

加藤和彦 (かとうかずひこ)
1947年3月21日生まれ、京都府京都市出身。ミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家、アレンジャー、シンガーソングライター。龍谷大学在学中に、アマチュア・フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成。1967年、ザ・フォーク・クルセダーズの解散記念として、自費によるアルバム『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』を制作。その中に収録されていた「帰って来たヨッパライ」が注目を集め、ラジオ局へリクエストが殺到。レコード会社5社から誘いを受け、東芝EMIよりプロデビュー。1968年、ザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングル『イムジン河』の発売が自主規制となる。同年、ザ・フォーク・クルセダーズ解散。1969年、ソロ活動を開始。シングル『僕のおもちゃ箱』をリリース。作曲家として楽曲提供も始める。 1970年、福井ミカと結婚。 1971年 、北山修との連名でシングル『あの素晴しい愛をもう一度』をリリース。1971年、妻の加藤ミカがボーカルの「サディスティック・ミカ・バンド」を結成。1973年、日本初のPA会社「ギンガム」を設立。同年、ナショナル住宅建材のCMソング「家をつくるなら」をシングルリリース。1975年、福井ミカと離婚。同年、サディスティック・ミカ・バンドを解散。1976年、ソロ活動を再開。シングル『シンガプーラ』をリリース。1976年、安井かずみと再婚。1983年、村上龍原作の映画『だいじょうぶマイ・フレンド』の音楽監督を担当したのをきっかけに以後、映画音楽や舞台音楽でも活躍する。1989年、ボーカルに桐島かれんを迎え、サディスティック・ミカ・バンドを再結成。1994年2月、安井かずみと死別。1995年、オペラ歌手の中丸三千繪と再々婚(2000年に離婚)。 1996年、西田ひかるとのデュエット曲「メロディー」(『ポンキッキーズ』挿入歌)を発表。2002年、ザ・フォーク・クルセイダーズを新結成。2006年、ボーカルに木村カエラを迎え、サディスティック・ミカ・バンドを再々結成。2008年、VITAMIN-Q featuring ANZAを結成。2009年、東京国際フォーラムでの松任谷由実のコンサートにゲストで参加。この出演が公の場に姿を見せた最後となった。2009年10月17日、自死により死去。享年63。


仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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