作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。
人生で最良の時、50歳からの生活情報サイト『熟年ばんざい』(大川栄策さん/歌と出会い人と出会い、そして時代と巡り合えた!/2019.12.19)より
1982年「さざんかの宿」によって当時、下火になりつつあった演歌に再びスポットライトをあてた大川栄策。演歌界の救世主のような存在である。今回の名言は、その道に至るエピソードで彩られたインタビューからの抜粋。「ラジオから流れてくる村田英雄さんの歌声を耳にし」「歌手を目指し」「同郷のご縁と父の友人の力もあって、古賀政男先生の下で歌のテストを受け」など様々な巡り合わせが大川をスターダムへと導く。そして「さざんかの宿」は、テレビドラマ『金曜日の妻たちへ』による不倫ブームの真っ只中にリリースされる。「世間がこの歌詞を受け入れてくれるタイミングだったのでしょう。時代が僕に味方してくれたのだと思います」と大川は語る。まさに、すべては巡り合わせなのである。
大川栄策(おおかわえいさく)
1948年10月30日生まれ、福岡県大川市出身。演歌歌手。高校卒業と同時に上京し、作曲家の古賀政男に弟子入り。1969年、霧島昇とミス・コロムビア「目ン無い千鳥」(原曲は1940年に霧島昇とミス・コロムビアが発表)のカバーで歌手デビュー。兄弟子、アントニオ古賀のシングルのB面だったが、リバイバルヒットとなる。1982年に発表した「さざんかの宿」が、売上180万枚を超える大ヒット。1983年、『日本レコード大賞』ロングセラー賞、各民放音楽祭、有線大賞などで数々の賞を受賞。『NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たした。紅白歌合戦には、1983年以降、連続4回出場している。1998年、歌手生活30周年を契機に「筑紫竜平」というペンネームで作曲家として活動を開始する。2002年「大川栄策の実弟」という設定の覆面歌手「イー・オー」名義でJ-POPの楽曲「ヴィクトリーロード」に挑戦。2018年『歌手生活50周年大川栄策CDコレクション』を発表。現在もなお、現役でステージに立ち続けながら、『大川栄策歌謡塾』を開設し指導にあたっている。