作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。
『SoWhat』(著・山口冨士夫/K&Bパブリッシャーズ/2008年5月24日発行)より
日本におけるロックの黎明期に生きる伝説となり、死してなお天才ギタリストとして語り継がれる山口冨士夫の自叙伝『SoWhat』。1960年代後半から1970年代のライブハウスやディスコなどが実名で登場し、内田裕也、鮎川誠、忌野清志郎をはじめ、様々なミュージシャンとの交流が生々しく描かれている。この本によると、山口は、イギリス軍人の父と日本人の母のもとに生まれたが、3歳でホーム(孤児院)に預けられる。「そこまではいいんだけど、なんか社会的に《愛の手を》っていうのは、疑問を感じざるを得なかったな」、「《恵まれない子供たちに……》って言われると、誰だってコンプレックスを感じるもんだよ。それでさ、寄付をくれたヤツらに御礼状なんかも書かされるんだ」などという。今回の名言は、そんな経験を山口が村八分時代に思い起こして気づいたこと。その気づきが、潜在的コンプレックスを乗り越えるきっかけになったという。まるで、ロックそのものを表現しているかのようだ。
山口冨士夫 (ヤマグチフジオ)
1949年8月10日生まれ、東京都出身。ロックミュージシャン、ギタリスト、ボーカリスト。1965年、中学時代の先輩である瀬川洋らと、ザ・モンスターズを結成。米軍キャンプのクラブを中心に音楽活動を始める。1967年、グループ・サウンズとしてメジャーデビューするため、ザ・ダイナマイツに改名。リードボーカルを務めたデビュー曲「トンネル天国」がヒットする。1969年、ザ・ダイナマイツ解散後、チャー坊(柴田和志)らと共にロックバンド・村八分を結成。 世界的にもパンクロックというジャンルが確立していない時代にパンクロックの様相を呈していた。1973年、京都大学西部講堂にてラストライブを行い、村八分解散。このライブを収録したアルバム『ライヴ』をリリース。本アルバムにより、村八分は解散後、広く知られるようになり伝説となった。1974年、ソロアルバム『ひまつぶし』をリリース。1975年、ルイズルイス加部らとリゾートを結成。1979年、村八分を再結成。京都大学西部講堂にて再結成ライブを開催。同年、再び解散。1980年、裸のラリーズに参加。1983年、20cmEP『RIDE ON!』をリリース。この頃からロックバンド・Tumblingsとしてライブ活動を行う。1986年、シーナ&ザ・ロケッツのアルバム『ギャザード』のレコーディングにギタリストとして参加し、ツアーにも同行。1987年、元村八分の青木真一、フールズの中島一徳、佐瀬浩平とTEARDROPSを結成。シングル「いきなりサンシャイン」でデビュー。1988年、RCサクセションのアルバム『COVERS』のレコーディングに参加。この頃、ボ・ガンボスのライブにも頻繁に参加している。1989年 、2ndアルバム『らくガキ』でメジャーデビュー。同年、忌野清志郎との共演シングル「谷間のうた」をリリース。同曲がFM東京などで放送自粛となり、ザ・タイマーズが『ヒットスタジオR&N』に生出演中、予定に無かった曲「FM東京」を、放送禁止用語を交えて歌った「FM東京事件」の一因となる。2007年、体調の問題で活動を停止。2008年、ライブハウス『原宿クロコダイル』にてライブ活動を再開。2013年7月14日、アメリカ人男性に暴行を受け、急性硬膜下血腫を起こし、同年8月14日、脳挫傷のため死去。享年64。2014年、ドキュメンタリー映画『山口冨士夫/皆殺しのバラード』(川口潤監督)が公開された。