作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。
『14歳からの地図 君に応援歌を 古関裕而 物語』(著・大野益弘/2020年3月27日発行)より
この本によると、古賀政男は古関裕而より5歳年上の先輩で、同じコロムビア専属の作曲家としてライバルでもあったようだ。しかし、古関はヒット曲に恵まれず契約解除を通告されていた。それを聞いた古賀は、古関の契約続行を会社の重役に掛け合うことになる。その時、説得に使った言葉が今回の名言である。続けて古賀は、「芸術家にはスランプがつきものです。もう少しあたたかく見守ってあげてください」と懇願。数日後、古関は重役に呼ばれ、めでたく解約解除はなかったことになった。実は、この時期、古賀もスランプに陥りヒット曲を出せずにいた。著者は「古賀は古関を自分自身の立場と重ね合わせていた」と推察している。この名言は、すべての創作者の熱い想いを代弁してくれている。
古賀政男(こがまさお)
1904年11月18日生まれ、福岡県大川市出身。作曲家、ギタリスト。1923年、明治大学予科に入学。明治大学マンドリン倶楽部の創設に関わる。1929年、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にて「影を慕いて」(ワルツ・ギター合奏)を発表。同年、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラにより「文のかおり」などの自作品をビクターにて収録。1930年、佐藤千夜子の歌唱による「影を慕いて」をビクターからリリース。1931年、日本コロムビア専属の作曲家となる。藤山一郎の歌唱による「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」「影を慕いて」など、多くのヒット曲を連発した。1934年、コロムビアからテイチクに移籍し、ここでも「緑の地平線」「二人は若い」「東京ラプソディ」「あゝそれなのに」「青い背広で」「人生の並木路」などの名曲を生み出す。1938年、外務省の音楽文化親善使節として渡米。1939年、コロムビアに復帰。1948年、近江俊郎の「湯の町エレジー」が大ヒット。同年、『古賀ギター歌謡協会』(古賀ギター学院)を設立。1959年、日本作曲家協会を創設。初代会長となる。服部良一らとともに『日本レコード大賞』を創設。1964年に発売された、美空ひばりの「柔」が約190万枚を売り上げるメガヒットを記録し、1965年の第7回『日本レコード大賞』にて大賞を獲得。1966年、美空ひばりの「悲しい酒」も約145万枚を売り上げるミリオンセラーとなった。1978年7月25日、急性心不全により死去。享年73。同年、国民栄誉賞が授与された。