【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#159 歌手・弘田三枝子の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

いただいた曲はすべて自分の歌にする

『new TOKYO』(INTERVIEW/LGBTの方が大好き♡ミコちゃんこと弘田三枝子の「生きる伝説」とゲイとの共通点インタビュー!2020.4.25)より

「お会いするゲイの方が皆さん口をそろえて“ミコちゃん、あなたもゲイよ ”っておっしゃるの。まあ、私ゲイだったのね、自覚を持たなくちゃって(笑)」。弘田三枝子は、ゲイに絶大な人気を誇り続けてきたという伝説を裏付ける貴重なインタビューである。2016年に新宿二丁目で開催された『弘田三枝子ナイト(ミコナイト)』には、ドラァグクイーンたちが集い、弘田は「今は自分が一番ドラァグクイーンらしい」と言うほど、その世界に溶け込んでいたようだ。今回の名言は、弘田三枝子のポリシーであり、プロとしての気概を表している。弘田は “自分の歌” にするために「何度も練習して、自分なりの表現を重ねて、世界を作り上げる」と語っている。まさに、天才の影に努力あり。弘田がLGBTの方と相性がいいというのは、その頑固なまでの独創性と、強烈な個性故だったのではないだろうか。


弘田三枝子(ひろたみえこ)
1947年2月5日生まれ、東京都世田谷区出身。歌手。レコードデビュー以前に、小学生の頃から進駐軍キャンプで歌い始める。弘田の名を世に知らしめたのは、1962年に競作(青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子など)でリリースされたシングル「ヴァケイション」のスマッシュヒット。1965年には、アメリカの『ニューポート・ジャズ・フェスティバル』に、日本人歌手として初出演を果たしている。1969年、シングル「人形の家」をリリース。オリコン・チャート首位を記録し大ヒットとなる。同年、第11回『日本レコード大賞』にて歌唱賞を受賞している。歌手以外の大ヒットとしては、1970年に出版された『ミコのカロリーBOOK』がある。出版部数約150万部の大ベストセラーとなり、その後、芸能人によるダイエット本の出版が流行。1977年には、生活拠点をニューヨークに移し、アルバム『Mieko In New York』を自主制作している。現地での結婚と娘の出産を経て、1979年に帰国。1980年、自ら作曲したシングル「ミスターシャドー」をリリースする。1983年、シングル「愛のNOKORIGA」、アルバム『TOUCH OF BREEZE』をリリース。2006年、レコードデビュー45周年を記念して制作された『弘田三枝子じゃずこれくしょん』CD8枚組BOXをリリース。2019年11月、中野サンプラザホールでの日本歌手協会『歌謡祭』のステージに立っている。ラストシングルは、2015年リリースの「悲しい恋をしてきたの/ひいふうみいよう」(55周年記念曲)。ラストアルバム、2019年リリースの『ゴールデン☆ベスト』。2020年7月20日に心不全のため死去。享年73。2020年はレコードデビュー60周年で、2021年には記念のシングル制作やコンサートなどを企画していたという。弘田三枝子は、プロの歌手として生涯現役を見事に貫いた。


仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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