【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#161 ミュージシャン・細野晴臣の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

飽きちゃったことを続けるのが本当に好きじゃないんで

『&M』(インタビュー/細野晴臣 いまの音楽には何かが足りない感じがする/2019.12.11)より

今回の名言は、2019年にデビュー50周年を迎えた細野晴臣へのインタビュー記事からの抜粋である。細野はまず、その記念すべき年を「巻き込まれ型の50周年」と名付け、「最初は他人事のようなつもりだった」と振り返る。のんびり構えていたら色々な事に巻き込まれていき、いつの間にか50年が経っていたらしい。その成功の背景にあるもの、それは、世間との逆行と脱力である。細野は、自分自身と「できれば向き合いたくない」ともいう。インタビュアーは、細野を「興味や好奇心の赴くまま遊んでいる子供みたいな感じ」と形容し、細野もそれを否定しない。そして、今回の名言へとつながる。「人生、退屈しちゃうのが嫌なんですよ」とその言葉の真意を明かす細野を、インタビュアーは「都市に住みながら、旅人のよう」と表現した。こういう生き方だからこそ、天才性を発揮し続けて来られたのではないだろうか。

細野晴臣 (ほそのはるおみ)
1947年7月9日生まれ、東京都港区出身。1969年、ロックバンド エイプリル・フールのベーシストとしてメジャーデビュー。1970年、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とフォークロックバンド はっぴいえんどを結成。日本語ロックの旗手として注目を集める。1973年、はっぴいえんどが解散。ソロ活動を始めつつ、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆らとキャラメル・ママ(のちのティン・パン・アレー)を結成。プレーヤーとして、プロデューサーとして、荒井由実をはじめ多数のアーティストの楽曲を手掛ける。同年、1枚目のソロ・アルバム『HOSONO HOUSE』を発表。1978年、高橋幸宏、坂本龍一とイエロー・マジック・オーケストラ (Y.M.O.) を結成。1984年、『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)をプロデュースし、ゲーム・ミュージックの先駆けとなる。YMO散開(解散/1983年)後は、テイチクに移籍。「Non Standard」と「Monado」の2つのレーベルを立ち上げる。Non Standardレーベルからピチカート・ファイヴ、World Standardなどを輩出する。1980年代後期にはワールド・ミュージック、1990年代にはアンビエント・ミュージシャンを日本で広める。2008年、『平成19年度芸術選奨』の大衆芸能部門で文部科学大臣賞を受賞。2019年、デビュー50周年。セルフカバーアルバム『HOCHONO HOUSE』の発売、アメリカ公演や展覧会『細野観光1969-2019』、ドキュメンタリー映画『NO SMOKING』など、記念イベントに沸いた。2020年3月18日、細野晴臣 50周年記念ドキュメンタリー映画『NO SMOKING』のために書き下した「No Smoking」「Smoko Memories」の2曲の配信を開始。





仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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