【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#161 歌手・藤圭子の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

歌っていうのは、聞いている人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ

『TAP the POP』(TAP the STORY/27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈前編〉〜「ポリープを切ることで私の歌の命まで切ることになった」/2016 .10.29)より

この記事は、藤圭子の歌手としての半生が、彼女の肉声を混じえて紹介されている。今回の名言は、引退の理由から生まれた言葉である。藤は、23歳の時にポリープの手術を受けた。それにより、「声があたしの喉に引っ掛からなくなったら、人の心にも引っ掛からなくなってしまった」と語っている。そして、今回の名言へとつながる。藤は、幼少の頃から、浪曲歌手の父と三味線瞽女の母の門付や流しに同行して芸を磨いている。そこで培った、歌で稼ぐことの厳しさを知っているからこその言葉である。「あれっ、と思わせ、もう一度、と思ってもらわなくては駄目なんだよ。だけど、あたしの歌にそれがなくなってしまった」ということが引退(1度目)の理由らしい。記事の後編では、藤が作家の沢木耕太郎に語った引退への思い、沢木が藤のインタビューをまとめた単行本「流星ひとつ」の出版秘話など、意外な真実が綴られている。

藤圭子 (ふじけいこ)
1951年7月5日生まれ、岩手県一関市出身。歌手。幼少の頃より、浪曲師の父・阿部壮と三味線瞽女だった母・竹山澄子の門付や流しの旅に同行し、歌を披露していた。旅の生活を続け、自らも歌った。15歳の時、北海道の岩見沢で行われた雪祭り歌謡大会のステージで作曲家の八洲秀章にスカウトされる。その後、流しを経て作詞家の石坂まさをの目にとまり、1969年、「新宿の女」でレコードデビュー。1970年に発売されたファーストアルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』は、オリコンLPチャートにて20週連続1位を記録。「女のブルース」、「圭子の夢は夜ひらく」、「京都から博多まで」など、ヒットを連発する。1974年、喉のポリープの手術を受ける。1979年に1度引退して渡米。1981年、帰国してシングル「螢火」(藤圭似子名義)で復帰する。1983年、ニューヨークにて娘の光(宇多田ヒカル)を出産。1993年、照實と光の3人で音楽ユニット「U3」を結成。アルバム『STAR』を発売。2013年8月22日、死去。享年62。


仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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