昭和、平成、令和の歌謡界をリードし続けた作曲家の筒美京平が死去、享年80

筒美京平、初の自選作品集「AOR歌謡」「アイドル」「シティ・ポップ」3タイトル発売

『筒美京平自選作品集 50th Anniversaryアーカイヴス』より

尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(1971年)、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(1975年)、岩崎宏美の「ロマンス」(1975年)、ジュディ・オングの「魅せられて」(1979年)など、多くのヒット曲を輩出したことで知られる作曲家の筒美京平が、2020年10月7日、誤嚥性肺炎により死去した。

筒美京平(つつみきょうへい)。1940年5月28日生まれ、東京都新宿区出身。青山学院大学在学中にジャズに傾倒。卒業後は、レコード会社の日本グラモフォン(現ユニバーサルミュージック)に入社。洋楽担当ディレクターとして勤務しつつ、作詞家・橋本淳の勧めにより作曲活動を始める。

1966年、望月浩(藤浩一との競作)の「黄色いレモン」で作曲家デビュー。1967年、ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」がヒットしその名を知らしめ、1968年、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」で作曲家としての地位を築く。

橋本淳、阿久悠、松本隆など、戦後の歌謡界を支えた偉大な作詞家とペアを組み、日本人の心に残る多くの名曲を生んだ。南沙織の「17才」、近藤真彦の「スニーカーぶる~す」、松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」など1970年代以降のアイドル歌謡をはじめ、その作品数は約3000曲と言われている。

日本レコード大賞では、大賞を2回に作曲賞を5回受賞。シングルチャートでは、1960年代から2000年代までの各年代で1位を記録し、現在まで10位以内にライクインした曲は200曲以上という偉業を達成。昭和歌謡のみならず、後のJ-POPにも大きな影響を与えた。2003年に紫綬褒章を受章。

筒美京平は、これからも伝説としてその名を残し、日本の音楽界に影響を与え続けるに違いない。