【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#172 シンガーソングライター・吉田拓郎の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

極端な言い方をすれば、人生何事もたまたまなんだよ

『明日に向かって走れ』(著・吉田拓郎/八曜社/1976年7月20日発行)より

この本が発行された頃の吉田拓郎は、森進一に「襟裳岬」(1974年)、かまやつひろしに「我が良き友よ」(1975年)、梓みちよに「メランコリー」(1976年)を楽曲提供してヒットを連発、作家としての才能も開花させている。フォーライフ・レコードを設立したのも同時期(1975年)で、この本はまさに吉田拓郎の大躍進時代の記録である。今回の名言は、第一章『今日と明日の戦争』の「非シンガー=ソング・ライター入門」からの抜粋。クリエイティブな仕事を志す人は、自分の才能の有無について考え込むこともあるだろう。しかし、吉田は「自分には才能があるだなんて思いもしなかった」そうで、就職するまでの間、たまたま音楽に没頭し、「オレにはこれしかない」と思っただけのことらしい。「自分には才能があると確信して突き進んだ連中よりも、才能はないかもしれないが、これしかないと思って突き進んでしまった連中のほうが多いと思う」という文章の後に今回の名言が続く。何かを志す者に対して、吉田は「まずやりたいことをやってみないことには始まらん」と説く。その言葉通り、まずはきっかけを掴むことが大事なのである。


吉田拓郎 (よしだたくろう)
1946年4月5日生まれ、鹿児島県大口市出身。日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在のひとり。1970年代当時、日本ではまだマイナー音楽だったフォークやロックをメジャー音楽に引きあげた立役者である。1970年、エレックレコード(インディーズレーベル)の契約社員となり、アルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』でデビュー。 1972年、CBSソニーに移籍。アーティスト兼プロデューサーとして活動する。移籍に合わせて発売した「結婚しようよ」が40万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。続けて、同年に発売した「旅の宿」は、60万枚を売り上げ、オリコンチャートで1位を記録。その後、作曲の依頼も相次ぎ、モップスの「たどりついたらいつも雨降り」(1972年)、猫の「雪」(1972年)、森進一の「襟裳岬」(1974年)、かまやつひろしの「我が良き友よ」(1975年)、キャンディーズの「やさしい悪魔」(1977年)など、昭和歌謡史に残る名曲を数多く生み出している。作詞家でもあり、音楽プロデューサーでもあり、レコード会社の経営者でもあり、そのすべてにおいて日本の音楽界の革命的役割を果たしている。日本ポップス史におけるレジェンド中のレジェンドである。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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