【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#178 作曲・編曲家 宮川泰の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

その言葉を、もっときれいに、皆が感じてくれる様なメロディーを作らなければならない

『日本テレビ音楽株式会社』(作家インタビュー/宮川泰先生インタビュー)より

昭和から平成に渡り日本ポップス界を牽引し、膨大な数の名曲を残した宮川泰。2001年に行われた日本テレビ音楽によるインタビューで、宮川は幼少時代から70歳に至るまでの音楽人生を振り返っている。今回の名言は、後世のポピュラー音楽界へのメッセージのひとつ。宮川は、今の音楽の中にも、「仲々よく出来ている作品もたくさんある」としつつ、「往々にして味もそっけもないものも多い」「詞の文脈がごたごたしてたり、いかにしたら人の心に残るかも考えていない」と指摘。「まず詞があって、その詞のイメージをいかにふくらませて、聴く人にはっきり分かってもらう為に、音楽はどう助けられるかという事が、一番肝心」と曲作りの肝を明かしている。「たとえば『上を向いて歩こう』は、老いも若きも唄った。そういう皆が唄える曲を、自ら作りたくなる様になって欲しい」と語る宮川の、作曲・編曲家としての矜持と、音楽界への熱い想いが感じられる名インタビューである。


宮川泰(みやがわひろし)
1931年3月18日生まれ、北海道留萌市出身。作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽監督、タレント、大学教授。高校卒業後、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)入学を経て大阪学芸大学(現・大阪教育大学)の音楽科に編入。ここでクラシック音楽を学びつつ、バンドを結成し関西地方で演奏活動を始める。大学を中退して上京し、渡辺晋とシックス・ジョーズに参加。ピアニスト兼アレンジャーとして活躍する。その後、独立して作曲・編曲家となる。1963年、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」で『第5回日本レコード大賞』編曲賞受賞。1964年、ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ東京」で『第6回日本レコード大賞』作曲賞受賞。ザ・ピーナッツの育ての親として知られる。1969年、伊東ゆかりの「青空のゆくえ」で『合歓ポピュラーフェスティバル’69』作曲グランプリ受賞。1971年、沢田研二の「君をのせて」で『合歓ポピュラーフェスティバル’71川上賞』受賞。他に、「銀色の道」「若いってすばらしい」「宇宙戦艦ヤマト」「JRA競馬のファンファーレ」など、日本の音楽史に残る多くの名曲を残す、日本ポップス界の開拓者である。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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