【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#180 作詞家・なかにし礼の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

エロスなど、何もかもが許される社会ではないと、平和とは言えない

『SANSPO.COM』(なかにし礼さん死去、中村泰士さん訃報に続き…昭和の偉人また一人 長男「最後まで格好良く色気があっていい男」)より

2020年12月23日、東京都内の病院で死去した 作詞家・なかにし礼(享年82)。今回の名言は、なかにしの作詞作曲で黒沢年男が歌った「時には娼婦のように」(1978年)の歌詞に、「娼婦」という言葉を使った理由である。作詞活動を通して、自由と平和を愛する気骨を見せ続けた文化人だったことを象徴する言葉だ。記事では、なかにしの長男・中西康夫氏が父の死を報告した文書も紹介。「父の作品にはいつも父の伝えたい事が深く書かれていました。最後まで格好良く色気があっていい男でした」と書かれている。今回の言葉を噛み締めながら「時には娼婦のように」や、なかにしの名曲をぜひ聴いてみてほしい。


なかにし礼 (なかにしれい)
1938年9月2日生まれ、満州国牡丹江省牡丹江市出身。作詞家、小説家。1960年、立教大学在学中に元タカラジェンヌでシャンソン歌手の深緑夏代に依頼され、シャンソンの訳詞を手がける。 1963年に石原裕次郎とホテルのバーで偶然出会い、作詞家になることを勧められる。1964年、作詞作曲した「涙と雨にぬれて」を石原プロに持ち込む。1966年に石原プロのプロデュースで、裕圭子とロス・インディオスの「涙と雨にぬれて」が発表され処女作となる。1968年には黛ジュンの「天使の誘惑」、1970年には菅原洋一の「今日でお別れ」、それぞれレコード大賞グランプリを獲得している。処女作発表から3年間の間に、なかにし礼が手掛けた楽曲の総売り上げが1000万枚を超える。またたく間に超人気作家となり、作詞家としての仕事以外にもラジオ番組のパーソナリティや舞台演出、作曲、俳優、歌手、コメンテーター、小説の執筆など様々な分野で才能を発揮する。1998年、小説『兄弟』で第119回直木賞候補となる。2000年、『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞。2012年、食道癌であることを発表し休業。2015年、単行本『生きるということ』を刊行。2016年、サンデー毎日に連載されていた『夜の歌』が単行本化。2020年12月23日、心筋梗塞のため死去、享年82。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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