【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#188 ジャズシンガー・安田南の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

円熟した、などとは死んでも言われたくない、聞きたくもない。わたしの歌はわたしの肉体とともに亡びるのが望ましい。「うた」というものは、もしかしたら本来そんなふうなものだと思ったりもする。

『TAP the POP』(「プカプカ」のモデルとなったのは激動の時代を駆け抜けたジャズ・シンガーの安田南だった/2016.2.20)より

安田南は、音楽プロデューサー・大木雄高が「ジャズのスタンダードを日本語で初めて歌いこなした歌手」と評した、日本の音楽史に残る実力派シンガーのひとり。しかし、安田は残した歌声そのものよりも、ザ・ディランⅡの名曲「プカプカ(みなみの不演不唱)」(作詞作曲:象狂象)のモデルとして広く知られている。「プカプカ」は、ザ・ディランⅡがファーストアルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』に収録し、1971年に発表。その後、西岡恭蔵、原田芳雄、桃井かおり、桑田佳祐、福山雅治、奥田民生など、多くの役者やミュージシャンがカバーし、今もなお歌い継がれている。この記事の瀬戸内寂聴の言葉によると、安田は「とてつもなくチャーミングな女の子」だったらしい。奔放で自由でハイセンスでクールな女性。「プカプカ」のイメージそのままの姿である。今回の名言は、そんな彼女が1979年以降に失踪する理由としてエッセイに暗示した、ひとつのメッセージなのかもしれない。これを機会に、安田南の歌声も、ぜひ多くの人に知ってほしい。


安田南(やすだみなみ)
1943年11月14日生まれ、北海道札幌市出身。ジャズシンガー。1961年、18歳でテレビ番組の勝ち抜きジャズボーカル部門に出演して優勝。同時期に、俳優座養成所(16期)に入所。1964年頃から、ジョージ川口とビッグ4や鈴木勲トリオなどと共に米軍キャンプで歌い始める。1971年、『第3回中津川フォークジャンボリー』に出演。しかし、安田のステージ中に暴徒と化した観客達がステージを占拠するという事件が起こり、演奏は中断となった。1972年、映画『天使の恍惚』の出演が決定するも、撮影途中に姿を消して降板。1973年、「赤い鳥逃げた?」でレコードデビュー。「アングラの女王」として音楽愛好者を中心にカルト的な人気を呼ぶ。1974年、作家の片岡義男と二人でラジオ番組FM『気まぐれ飛行船』でパーソナリティを務め、人気を集める。同番組を無断で休み、1979年以降に姿を消す。歌手活動以外に、役者、ラジオのDJ、執筆などにマルチな才能を発揮した。2004年、アルバム『Some Feeling』が27年ぶりにCDで復刻。現在まで正確な消息は不明である。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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