【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#200 作曲家・歌手 船村徹の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。


これからも身体の続く限り、酒を飲み、タバコを吸って歌い続けてゆくだろう。巷の唄はどんな歌、それをさぐるために

『酒・タバコ・女 そして歌』(著・船村徹/東京新聞出版局/1992年6月13日発行)より

昭和を代表する大作曲家・船村徹。この自伝は、小学校4年生でのトランペッターデビューに始まり、苦境のギター流し時代、盟友で作詞家の高野公男(享年26)との別れ、美空ひばりや愛弟子達(北島三郎、鳥羽一郎、香田晋)との思い出、歌手活動や刑務所慰問活動などが事細かに記されている。今回の名言は、最終章「生涯現役」からの抜粋。この章で船村は、「はやり歌ほど大衆に溶け込んでいる芸術はない。それを認めさせたいのだ」と意気込み、感性を錆びつかせないためにも「生涯現役で通すしかない」と主張。1958年から始めた刑務所慰問活動や、各地を巡って歌う『演歌巡礼』を言葉通り生涯続け、「はやり歌」を追求した。それらの活動は、現代も船村の意思を受け継いだ弟子達により続けられている。船村が愛した、酒、タバコ、女に関する描写も多く、戦中・戦後の激動の時代を生き抜いた男の美学に彩られた一冊である。


船村徹(ふなむらとおる)
1932年6月12日生まれ、栃木県塩谷郡塩谷町出身。作曲家、歌手。日本作曲家協会最高顧問。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長。村田英雄の「王将」(1961年)、美空ひばりの「みだれ髪」(1987年)など、手掛けた曲は5000曲以上にものぼる。戦後の歌謡界を牽引した偉大な作曲家のひとりである。東洋音楽学校在学時、米軍キャンプ専門のバンドでバンマスや流しの歌手などを経験。同時期、作詞家の高野公男とコンビを組んで作曲活動を始める。1953年、雑誌『平凡』の作曲コンクールで第一席となった「たそがれとあの人」がレコード化されて、作曲家としてデビューを果たす。1955年、高野公男との作品で春日八郎の「別れの一本杉」が大ヒット。それを皮切りに、三橋美智也の「ご機嫌さんよ達者かね」と「あの娘が泣いている波止場」(共に1955年)、青木光一の「柿の木坂の家」と「早く帰ってコ」(共に1957年)など、次々とヒットを重ねて一躍スター作家となる。1993年、日本作曲家協会理事長に就任。1997年、作曲家・吉田正の後を受けて第4代会長に就任。1995年、紫綬褒章受章。2002年、栃木県県民栄誉賞受賞。2003年、旭日中綬章受章。2016年には、歌謡曲作曲家として初めて文化勲章を受章している。愛弟子として、北島三郎、鳥羽一郎、三木たかし、香田晋、海道はじめ、森サカエなど、錚々たる歌手を輩出している。一般的には作曲家として知られているが、『演歌巡礼』と称したコンサート活動においては、歌手として歌唱することも多くあった。2015年、栃木県日光市今市の『道の駅日光 日光街道 ニコニコ本陣』併設の『日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館』がオープン。2017年2月16日、心不全のため死去。享年84。同年3月17日、従三位に叙する。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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