【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#206 歌手・淡谷のり子の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集


作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。


恋をすることです

『知的遊戯』(著・はらたいら/角川書店/1985年12月10日発行)より

今回の名言は、漫画家・はらたいらが、歌手・淡谷のり子に「その美声をずっとたもっていらっしゃる秘訣はなんですか?」と訪ねた際の答え。はらは、「間髪を入れずに答えられたのが印象深い」と振り返っている。続けてはらは、「『もう年だから……』『私は女だから……』『男がそんなこと……』 一切無関係だ。この世に生を受け、大地に還るまで、だれでもいつでも、この素晴らしい感性を躍動させて生きる権利があるんだ」「淡谷のり子さんはそれを知っている」「いくつになっても、本気で恋ができるって、素晴らしい」と断言。当時、テレビ番組『クイズダービー』にて、抜群の博識ぶりで人々を仰天させ、女性人気も高かったはらたいら。そのはらが、「二百人以上会った女性の中で、最高に素晴らしい方だ」と賞賛しているのだから説得力がある。この対談は、はらたいらのエッセイ集『知的遊戯』に収録。淡谷によるマスコミ批判や戦地での慰問の話も貴重だ。人生、恋愛、遊びについて、はら独特の視点で書かれた、ユーモア溢れる名著である。


淡谷のり子(あわやのりこ) 
1907年8月12日生まれ、青森県青森市出身。歌手。1923年、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科に入学。のちに、ソプラノ歌手・荻野綾子に歌手としての才能を見込まれて声楽科に編入する。プロのオペラ歌手を目指しクラシックの基礎を学ぶ。1930年、「久慈浜音頭」でデビュー。1931年、古賀メロディーの「私此頃憂鬱よ」がヒット。1935年、スペイン人の女性歌手ラケル・メレの名曲「ドンニャ・マリキータ」をカバーし、“日本のシャンソン歌手第1号”と謳われる。日中戦争が勃発した1937年、「別れのブルース」が大ヒット。収録では、ブルースの情感を漂わせるために、酒と煙草でノドを潰し、ソプラノの音域をアルトに下げて歌ったという。1953年、『第4回NHK紅白歌合戦』に出場し、紅白初出場を果たす。紅白(第1回を除く)で、初出場でトリを務めたのは淡谷のみという記録がある。1988年から1990年代にかけて、ものまねバラエティ番組『オールスターものまね王座決定戦』の名物審査員として若い世代からも人気を集めた。1996年、森進一や美川憲一ら後輩たちによって企画された淡谷の米寿を祝う記念コンサートを開催。このコンサートのフィナーレで出演者全員による合唱で口ずさんだ「聞かせてよ愛の言葉を」が最後の歌唱となった。クラシックの基礎を学び、オペラ歌手を目指していたが、家計を支えるために流行歌を歌い、やがて、日本におけるシャンソン界の先駆者となった。そして、「ブルースの女王」として日本歌謡史に深く刻まれる。1999年9月22日、老衰により92歳で死去。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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