作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。
『松本隆対談集 風待茶房 1971-2004』(著・松本隆/立東舎/2017年1月10日発行)より
高田渡と松本隆が共に22歳だった1971年に行われた対談。進行役は、松本隆の同級生で、はっぴいえんどのマネージャーだった石浦信三。石浦が「二人は詞の面でも曲の面でもいい意味で両極に対蹠していると思うし、微妙なところで一致しているとも思う」と言うように、この二人の対談には意外性がある。しかし、松本隆は、はっぴいえんど時代に高田渡のライブのバックでドラムを叩いており、高田のアルバムの中で一番ヒットした『ごあいさつ』(1971年)でも演奏している。京都巡りや古本屋巡りを共にするなど、音楽以外の部分でも意気投合したそうだ。石浦の「二人とも、普通の意味合いでは売れないね」という言葉を受けての高田の発言が今回の名言。続けて松本が「それが偶然売れたとしたら、それが本当に自然だものね。売れなきゃいけないなんて考えてあくせくしてるの、すごく惨めったらしいよ」と応える。いい詞について話が及ぶと高田は、「誤解が起きやすいのが、いちばんいい詞なんですよ」と主張。松本が「ぼくはわざと日常語を使いたがるから、表面上は優しく見えるかもしれないね」と言うと、高田は「むしろ難解な用語というのは、一通りの意味しかないし、複雑な内容を日常語で言うほうが、実は複雑だし歌らしいんだよ」と、松本の歌詞の魅力をすでに見極めているかのように語る。この対談の3年後、松本は「ポケットいっぱいの秘密」(アグネス・チャン)で専業作詞家デビュー。以後、ヒットメーカーとして第一線で活躍し続けることとなる。歌の世界の真理は、売れようとすることとは別のところにあるのかもしれない。
高田渡(たかだわたる)
1949年1月1日生まれ、岐阜県北方町出身。フォークシンガー。1966年、音楽評論家の三橋一夫に師事しアメリカ民謡や明治演歌について学ぶ。同じ頃、灰田勝彦のバンジョー教室やうたごえ喫茶『灯火』に通い、フォークシンガーへの道を歩み始める。1968年、四谷の野村ビル会議室にて初めてフォークシンガーとして歌う。遠藤賢司、南正人などと東京のアマチュアシンガー集団「アゴラ」に参加。1969年、関西に拠点を移し、高石事務所に所属する。高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良などと共に関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。同年、「大・ダイジェスト版三億円強奪事件の唄」を発表。同年、『第1回全日本フォークジャンボリー』に参加。1970年、『第2回全日本フォークジャンボリー』に参加。1971年、ベルウッド・レコードから『ファーストアルバム ごあいさつ』をリリース。1971年、『第3回全日本フォークジャンボリー』に、ジャグ・バンドである武蔵野タンポポ団のメンバーとして出演。1975年、細野晴臣、中川イサトとのトリオ編成でロサンゼルスで録音。翌年、アルバム『FISHIN’ ON SUNDAY』としてリリース。1989年、『第4回全日本フォークジャンボリー』に参加。1993年、ハウスシチューのCMソング「ホントはみんな」の歌を担当。1997年、市川準監督の映画『東京夜曲』の主題歌に「さびしいといま」が採用される。1999年、詩人・山之口貘の詩の楽曲をまとめたアルバム『貘』をリリース。2001年、エッセイ集『バーボン・ストリート・ブルース』を出版。2004年、高田の日常とライブ映像を撮影したドキュメンタリー映画『タカダワタル的』が公開される。2005年4月15日、北海道白糠町でのライブ終了後に倒れ、入院。翌16日、心不全により死去。享年56。