【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#213 歌手・ジェリー藤尾の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集


作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。


我々の世界は落ちるの当たり前ですからね。ただ、自分には歌っていう財産があるから。これだけは人に持ってかれることはないから

『新・人間コク宝』(著・吉田豪/コアマガジン/2010年12月2日発行)より

2021年8月14日、急性肺炎によりこの世を去った歌手・ジェリー藤尾。プロインタビュアー・吉田豪によるこのインタビュー集の中では、ジェリーにまつわる様々な伝説について紐解かれている。歌舞伎町を仕切っていた愚連隊の用心棒時代、芸能界デビュー、自律神経失調を患いながらの離婚や破産といった波瀾万丈な人生を振り返るジェリー。「芸能界で考え方の合うような人はいました?」という質問には、「いません。いたら即友達になってる。芸能界には長いものには巻かれろが根づいているからでしょうね、きっと。他の人にはいいかもしれないけど、僕にとってはちっともいい言葉じゃない」と返答。「遠くへ行きたい」(1962年)が大ヒットしてスターになってからも様々な軋轢があったことを語っている。子供の頃から、「間違っていることは間違ってるんだから。俺は巻かれないよ、嫌だよ!」という信条を貫いてきたジェリーにとって、芸能界は生きやすい世界ではなかったかもしれない。しかし、インタビューの最後に記された今回の名言を胸に、ジェリーは歌うことを誇りとして生涯現役で活躍し続けたのである。


ジェリー藤尾(じぇりーふじお)
1940年6月26日生まれ、中華民国上海・日本租界出身。歌手、俳優、タレント。1957年、ジャズ喫茶でエルヴィス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」を飛び入りで歌ったところを、芸能事務所・マナセプロダクションにスカウトされる。1958年、水原弘とブルーソックスのシンガーとして日劇のウエスタンカーニバルで舞台デビューを果たす。1959年、映画『檻の中の野郎たち』(監督:川崎徹広)で俳優デビュー。1961年、「悲しきインディアン」でレコードデビュー。1962年、シングル「遠くへ行きたい」が大ヒット。伝説的バラエティ番組『夢であいましょう』(NHK)の「今月のうた」に採用されたことで人気を呼ぶ。同曲は、1970年に旅番組『遠くへ行きたい』のテーマ曲としても使われ、デューク・エイセスをはじめ多くのシンガーに歌い継がれる日本のスタンダードとなった。1962年頃、パップ・コーンズというバンドを率いてライブ活動もしている。そのバンドには、のちにドリフターズのメンバーとなる高木ブーと仲本工事もバンドマンとして参加していた。1961年、映画『用心棒』(監督:黒澤明)に出演。1968年からはテレビドラマ『キイハンター』(TBS)に度々出演。映画やテレビドラマで俳優としても活躍を続けた。紅白歌合戦には、1961年の第12回より3年連続で出場している。テレビタレントとしてもお茶の間を賑わせ、コンサートやディナーショーなどで息の長い芸能活動を続けた。日本の芸能史にその名を刻む、昭和を代表するエンターテイナーのひとりである。2021年8月14日、急性肺炎により死去、享年81。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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