【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#217 作曲家・都倉俊一の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集


作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。


プロのソングライターというのは仕立て屋さんで、オーダーメイドの曲を作るわけです

『家庭画報.com』(インタビュー・レポート/「夜のヒットスタジオ」「スター誕生!」芳村真理さん&都倉俊一さんが語る70年代歌謡界/2018年12月18日号)より

昭和の歌謡界を彩った伝説のテレビ番組『夜のヒットスタジオ』と『スター誕生!』。今回の名言は、『夜のヒットスタジオ』の元司会者・芳村真理と『スター誕生!』の元審査員の都倉俊一が当時を振り返る対談からの抜粋である。記事の中では、山口百恵、沢田研二、和田アキ子、南沙織、フォーリーブスなど、様々なスターの名前があがっていく。芳村が“新御三家”(西城秀樹、野口五郎、郷ひろみ)に触れつつ、都倉に「それぞれの個性にぴったり合う歌を都倉さんたちが作って、大ヒットさせていましたね」と語りかけた後、都倉が発した言葉がこの名言。都倉は「歌を作る過程では、ディレクターとやり合うことも多々あります。“お願いだから、ここの四小節だけ書き直してください” “冗談じゃない”などとやり合いながら、その歌手の世界をつくっていく」と明かす。番組側もイントロに合わせたカット割りを考えたり、衣装担当者が番組のためだけの衣装を作ったりと、その世界観を存分に表現するために多くの人の力が集結していたのだ。芳村も「芸能プロダクションも『平凡』などの雑誌も、みんなが楽しみながら協力して、歌謡界を盛り上げていた」と歌謡界の黄金期に思いを馳せる。“今だから話せる裏話”の数々から、輝きの理由が見えてくる意義深い対談である。


都倉俊一(とくらしゅんいち)
1948年6月21日生まれ、東京都出身。作曲家、編曲家、歌手、プロデューサー。4歳の頃からバイオリンを始める。1968年、フォークグループのザ・パニック・メンのボーカルとして「想い出の小径」でレコードデビュー。1969年、中山千夏のデビューシングル「あなたの心に」で作曲家としてのデビューを果たす。70年代の初頭から、山口百恵のデビューシングル「としごろ」(1973年)をはじめ、フィンガー5やピンク・レディーなど、多くのアイドルのデビューやヒット曲を手掛け、人気作曲家としてその名を轟かせた。1971年に始まったオーディション番組『スター誕生!』の審査委員としてもお茶の間で親しまれる。1995年、『日本作編曲家協会』の理事に就任。2001年、『日本音楽著作権協会』の理事に就任。2005年、『日本作曲家協会』の理事に就任。2009年、『日本作曲家協会』の常務理事に就任。2010年、『日本音楽著作権協会』の会長に就任。2011年、『文部科学省文化審議会』の委員に就任。2014年、『昭和音楽大学』の客員教授に就任。2021年4月1日、第23代文化庁長官に就任。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
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