【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#240 歌手・小柳ルミ子の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集


作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。


自分で考えて自分で決めたんだから、自分で責任をとらなきゃいけない

『mi−mollet』(インタビュー 人生、おしゃれ、そしてこれから/【小柳ルミ子芸能生活50年】宝塚は通過点、人生を決めた17歳異例の決断/2020年8月18日配信)より

2020年に女優デビュー50周年、2021年に歌手デビュー50周年を迎えた小柳ルミ子。このインタビューでは、小柳が幼い頃から歌手を目指して週に8つのお稽古ごとに励んだ日々や、宝塚音楽学校時代、デビューのきっかけなどの貴重な体験が明かされている。小柳は15歳で、芸能スキルを磨くために宝塚音楽学校を受験し、競争率40倍の難関を突破。しかし、その寮生活がとにかく辛かったという。「私は15歳で入学したんですけど、宝塚って19歳まで受験ができますから、同期のほとんどは年上なわけです。しかも私はクラスの委員に任命されたものですから、15歳の私がお姉さん方を引っ張っていかなくてはいけなかったんですよ。それはもう大変で」と、小柳は当時の苦労を振り返る。

誰も言うことを聞いてくれないことが辛く、毎晩のように母親に電話をかけていたという。しかし、小柳が泣きながら「もう帰りたい」と言っても母親はそっけなく「嫌ならやめれば?」と吐き捨てて電話を切り、またすぐに電話をしても「自分で考えなさい」と一言。小柳は当時こそ厳しい母親を恨んだものの、「いまとなってはそれが自分にとって良かった」と語る。「母は私が子供の頃から、『ああしなさい』とか『それしちゃダメ』とか絶対言わなかった」という。子供の頃から、“やる”も“やめる”もすべて自分で決めさせられていたのだ。「そうするとね、人のせいにできないんですよ」と語り、今回の名言につながる。母親が一人娘の小柳に身を持って伝えた、長く一つの道を歩み続けるための人生訓のように感じられる。


小柳ルミ子 (こやなぎるみこ)
1952年7月2日生まれ、福岡県福岡市出身。歌手、女優、タレント、プロデューサー。1970年、宝塚音楽学校を首席で卒業。同年、NHK連続テレビ小説「虹」で女優としてデビュー。1971年、作曲家・平尾昌晃のプロデュースによる「わたしの城下町」で歌手デビューし、約160万枚のセールスを記録する。「第13回日本レコード大賞」最優秀新人賞を受賞。1972年、「瀬戸の花嫁」が大ヒットし「第3回日本歌謡大賞」を受賞。歌手デビューした1971年から1988年まで18年連続で「NHK紅白歌合戦」に出場している。1982年、映画『誘拐報道』に出演し、「キネマ旬報賞」助演女優賞と「第6回日本アカデミー賞」最優秀助演女優賞を受賞。1983年に出演した映画『白蛇抄』にて「第7回日本アカデミー賞」最優秀主演女優賞を受賞。2002年、島津亜矢のシングル『夜桜挽花』とアルバム『彩 -AYA-』をトータルプロデュース。2021 年、歌手生活50周年記念曲の「深夜零時、乱れ心」「言葉にならない」を発売。現在もなお、コンサート、バラエティ番組、ラジオ番組、インスタグラムなど多方面で活動中。



仲村 瞳(なかむらひとみ)
仲村瞳(なかむらひとみ)
編集者・ライター。2003年、『週刊SPA!』(扶桑社)でライターデビュー後、『TOKYO1週間』(講談社)、『Hot-Dog PRESS』(講談社)などの情報誌で雑誌制作に従事する。2009年、『のせすぎ! 中野ブロードウェイ』(辰巳出版)の制作をきっかけに中野ブロードウェイ研究家として活動を開始。ゾンビ漫画『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ~童貞SOS~』(著・すぎむらしんいち/講談社)の単行本巻末記事を担当。2012年から絵馬研究本『えまにあん』(自主制作)を発行し、絵馬研究家としても活動を続ける。2014年にライフワークでもある昭和歌謡研究をテーマとした『昭和歌謡文化継承委員会』を発足し会長として活動中。
◆昭和歌謡文化継承委員会 Twitter
◆偉人達の借金名言集 Twitter