【仲村瞳の歌謡界偉人名言集】#50 シンガーソングライター・吉田拓郎の言葉

仲村瞳の歌謡界偉人名言集

作詞家、作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、バンドマン、振付師、……そして、歌手。きらびやかな日本の歌謡界を支えてきた偉人たちを紹介するとともに、その方々が発したエネルギー溢れる言葉を伝えます。常軌を逸した言動の裏に、時代を牽引したパワーが隠されているのです! このコラムで、皆様の生活に少しでも艶と潤いが生まれることを願います。

旧い曲だけで生きていくことだけは絶対にしない

月刊文芸誌『すばる』吉田拓郎ロングインタビュー(聞き手・重松清/集英社/2010年3月号)より

※インタビュアーは、吉田拓郎の熱烈なファンとして知られる直木賞作家の重松清。インタビューの中で重松は、拓郎の実像に迫りつつ、音楽活動に対するひとつのポリシーを聞き出している。「これだけは絶対守り続けるというのは一点だけで、それは新作を作り続けること」「必ず新しい言葉、曲を作る。新しいメロディと新しい詩を書き続けるということだけはさぼりたくない……」と拓郎は語る。例えば、「結婚しようよ」(1971年)、「落陽」(1973年)、「ローリング30」(1978年)、「KAHALA」(1983年)など、拓郎のイメージは時代とともに変化し続けてきた。それこそが、吉田拓郎の魅力そのものなのである。

吉田拓郎(よしだたくろう)
1946年4月5日生まれ、鹿児島県大口市出身。日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在のひとり。1970年代当時、日本ではまだマイナー音楽だったフォークやロックをメジャー音楽に引きあげた立役者である。1970年、エレックレコード(インディーズレーベル)の契約社員となり、アルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』でデビュー。 1972年、CBSソニーに移籍。アーティスト兼プロデューサーとして活動する。移籍に合わせて発売した「結婚しようよ」が40万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。続けて、同年に発売した「旅の宿」は、60万枚を売り上げ、オリコンチャートで1位を記録。その後、作曲の依頼も相次ぎ、モップスの「たどりついたらいつも雨降り」(1972年)、猫の「雪」(1972年)、森進一の「襟裳岬」(1974年)、かまやつひろしの「我が良き友よ」(1975年)、キャンディーズの「やさしい悪魔」(1977年)など、昭和歌謡史に残る名曲を数多く生み出している。作詞家でもあり、音楽プロデューサーでもあり、レコード会社の経営者でもあり、そのすべてにおいて日本の音楽界の革命的役割を果たしている。日本ポップス史におけるレジェンド中のレジェンドである。